ひと・まち・ねこを、いろんなわたしを、つなげていく。/ ネコーディネーター・母 永野裕子さん

ひと・まち・ねこを、いろんなわたしを、つなげていく。/ ネコーディネーター・母 永野裕子さん

長崎市出雲町に暮らす永野裕子さん。長崎らしい細い石の階段を登った先に夫のタカシさん、9歳と6歳のお子さん、そして親子猫二匹と住むご自宅がある。

入り組んだ坂の町には地域猫が多く暮らす。そんな猫と周りの人・まちとの「調整役」として、永野さんは2021年から自治会と連携した「ネコーディネーター」の活動をしている。

活動は自治会と連携し行う猫の保護や不妊化手術、給餌や健康管理などのマネジメントだけではなく、地域猫教室の講師や相談会、費用を賄うグッズ販売など。ご自宅のまわりにも餌の器がずらり。

8月の日差しのせいかお庭には猫の姿がない・・と思いきや、エアコンの室外機がつくる影にはトラ猫が逃れていた。

永野さん1
永野さん2

ご自宅に招き入れてくれた永野さんは、外の日差しと変わらない明るさの笑顔。初の取材に緊張していた私の不安もふわっと軽くしてくれる。

子育てと地域猫が最初から隣にあったという永野さんの生活を表すように、リビングにはお子さんの絵や勉強道具と猫の遊び場が隣同士に。

猫活動の取材を受けることが多いという永野さんだが、今回はもう少し深く。自己紹介から流れるように、永野裕子さんの歴史を振り返る取材が始まった。

フワフワしていた幼少期

生まれ育ったのは長崎市北部。幼い時に両親が離婚し、兄弟のいない(当時、松尾)裕子さんは叔父と叔母が住んでいた団地で一日のほとんどを過ごして育った。

母の仕事が終わると二人で家に帰り、一緒に寝る。アパートが並ぶ団地を巣箱みたいだったと例える裕子さん。

生活が窮屈に感じることはあったか聞いてみると、あまり覚えていないという。「今思ってみれば」という語り口で、幼少期を振り返る。

永野さん3

「いや、なんにもね、そのころはもうフワッフワしてたんですよ。全然、もうなんかね、心ここにあらずみたいな感じだったんですよ。だから覚えてないなー窮屈とかはなかったかなー。でも早く大人になりたいと思ってたかな」

大人になったら何があると思っていたのだろう?

「大人になったら…自由。自由があると思ってた」

「あとすごく、『やさしくしたい』って思ってて。『私は大人になったらやさしくするんだ!』って思ってました。なにが、とか、なにに、とかはっきりしないけど」

永野さん4

当時の母の年齢を経験した今、ひとりの若い女性としての母の心境を思いやりながら言葉を紡ぐ。

「たぶんただ女性だったんですよ。母はね。30代とかだったから。母っていうよりもさみしいみたいのがすごくあったのかな」

「仕事が終わって二人で帰って、一緒の布団で二人で寝てても、夜中起きると母がいないことが普通にあったんですよ。夜遊びで。行き場のない寂しさとか責任とかそういうのを発散したかったんだと思うんだけどね、それが私にとっては寂しかったから」

言葉にしたことがないから、と言いながら当時の感情の輪郭を探す。

「その時は、取られるっていうか。この母親が私のものでなければ私はいったい誰のものになれば良いんだろうっていうか」

子どもながらに気を遣い、それを叔母や友達には言わなかった。外から見えている自分と自分の感じている中身は全く一致していなかった、と語る。

「だからフワフワしないと生きてられなかったんだと思う。自分の中では葛藤とか、言葉にできない思いがあったと思うけど、それを外に出してたら生きていけないって思って、フワーフワしてたんだと思う。あえて」

ぱっと切り拓いては、ずどーーんと落ちる

早く大人になりたかった裕子さんにチャンスが訪れる。通っていた商業高校に来た求人票である。ふわりと就職を決め、18歳で入ったのが地元の文具専門店だった。

就職の決断は軽やかだったが、その後大きく落ち込む。

「すごいショックが襲ってきて。人生を簡単に決めてしまった、って、自分が選んでしまった世界にずーーーーんってなったんです」

販売職で就職したが、研修の時に総務の電話交換の仕事が空いてしまい、「誰か出来る人…」と聞かれてシーンとする同期の中で耐えられず手を挙げてしまう。

永野さん5

「なんで挙げてしまったんだーー!って落ち込んだね。でも私そういうとき挙げたくなるとさ!!」と大爆笑。子どもの頃も、学級委員長はしないけど、クラスの中の暴れん坊の子の担当になったり。自分が必要とされていれば手を挙げていた。

総務にかかってくる大量の電話を適切な売り場や役職にひたすら繋ぎ6年半。売り場に出向き販売員や客と話す中で情報を積み重ねた。

「ちゃんと座って、電話をとりあえず繋げば良いのにって思われてたかも知れなかったけど。売り場の人の不満が減って行くのは満足感あったし、お客さんと話すのも、私は長話じゃなくて『満たしてる』て思ってた」

実際、お客さんをたらい回しにせず的確に人のニーズに答えられるようになり、その工程に喜びを感じていたという。

自分に一本、筋が通ったと感じたのは24歳から。今しかない、と急に思うタイミングが訪れ、裕子さんは震えながら販売職への転向を願い出る。

初めて自分の意思で手にしたこの転向を皮切りに、裕子さんは人生を自称「発作的な」タイミングで切り拓きはじめる。持ち前の軽やかさに意思の強さが加わりそうなったのだろう。前触れがなかった決断が急に出てきて、驚かされる。

一人暮らしを始めたのも24歳。ふと、誰かがずっと母の隣にいてくれるかなんてわからないと思い、自分しか守れる人がいない状況を想像する。

「その時に、自立してなかったら支えられないなと思ったわけよ。じゃあ今一回出て、自分の軸を立てて母を支える時を迎えなければいけないと急に思った」

「これは必要に迫られて」と半ば強引に母を説得し、キッチンと部屋が3つもある古いファミリー用アパートに住みはじめる。

永野さん 手元

20代のほとんど、9年間をかけ付き合った恋人との別れも、ふっと決めるタイミングが訪れた。

「気が合い過ぎて、共感とか境遇とか好みとかあまりにも一致し過ぎていて、私はもうこの人がいれば友達はいらない!って思ったわけ」

そこで目が覚めた、という。

「まてよ、と。友達がいらないってやばくないか!この人さえいれば、って20代で思ったらさ、その先何もないやん。でダメだ!と思って、別れを決めた」

「でも、ご想像の通り、別れたあと、ずーーーーん。落ち込む時期があった」

発作的タイミングは仕事でも訪れ、文具専門店を退職。周りの人からしたら突然のことで、親からも大丈夫?と心配された。「わかんない。でもやめる」と28歳で退職。

「9年半勤めて。やめて。あはー、やめたーって思って」

そして………「ずーーーーーん。やめたわーーーー、って」

その後、新しい勤め先で出会ったタカシさんの年下で独身なのに世帯持ちみたいなオーラとナナメ上の魅力にハマり、付き合い始めて一年ほど経った頃、裕子さんの仕事の契約期間満了のタイミングで「結婚する?もう今しかなくない?って言ったら。お、おう、、って言われて」

結婚した時も、長男を出産した時も、ずーーんと落ちる時期があったという。出雲町の家に引っ越してきた時も、「一生ここに住まなきゃいけないんだ」と落ち込む。

永野さん12
夫のタカシさんとは、出会ってから「はあ゛??」と言わされ続ける毎日。予想外を好む裕子さんにはそれが面白いのだとか。最近あった面白いことは?と聞いてでてきたエピソードは「例えば今朝は・・・」と始まった。まだ朝の10時だというのに!

軽やかに決断に辿り着いたと思えば、その軽やかさからは意外なほどに落ち込む。裕子さんは常に驚かされたいのかもしれない。これから先、予想外がないかもしれない、と思う時にずーんと落ちるんじゃないだろうか?

「そうね、そうそうそう。決まってしまった!みたいなショックがあるのね。もう選べない、選択肢がない、みたいな」

「この時期は立ちあがろうと光を求めて彷徨ってて。自分で決めた!と思ったけど、あーーー….でもーーー….みたいなのをずっと繰り返してた」と振り返る。

道が見えた。でも選択肢は狭まらない

地域猫活動を始めた時も「ピカーンと来た」そう。

以前から、暖かい家の中で寝ている猫と壁一枚隔てて寒い外で丸まって寝ている猫とに“いのちの差”を感じていた。自分も次男が生まれ授乳している時期に、今まで雄に追いかけられてるのを見ていた雌猫が子猫を2匹つれて家の裏に突然現れた。

「この時が来てしまった、と思って。私は(猫の保護活動について)ずっと調べたりしてたけど、ついにここが選ばれてしまったから、これはもう向き合おう、みたいな。この子を助けよう、とかじゃなくて。『そっか、地域猫活動、やるんだ』みたいなのを、将来やってる自分を思い出したって感じ」

永野さん6
永野さん7

自分の前にはっきり道がみえて、それをただひたすら辿る2年間を過ごした。ただ、道が見えたからといって人生が決まってしまったと落ち込むことはなかった。それは自分が自分の生活や人生を変える力を自覚できたからかもしれない。

「前は一つ道を決めるとその周りの風景もセットで決まってると思ってたけど、今は道はあるけどその周りの風景は如何様にでもなると思うようになったんですよ」

「人生はAセット、Bセットって決まっているわけじゃない。サイドメニューは、選べる」

それがわかってから、楽になったと話す。

その気づきは裕子さんの地域での活動の原動力にもなっていた。

「取り返しがつくことも学んだんじゃないですか。この家だって別に一生住まなくても良い。自分が思い込みが強かったんだな、って気づいたら楽になってきたかも。それを社会にも言いたくなったわけですよ」

野良猫がいてあたりまえ、人間が迷惑を被っている、そんな社会の「思い込み」をひとつずつ解いていきたいと話す。

決断し、落ち込みを繰り返しながらようやく地に足がついたという裕子さん。状況は変えられるんだと語る目はまっすぐだ。

子育てはキツいけど、自分を癒す作業でもある

今は猫活動と母ちゃん業を同時並行、かつ全身全霊でやっていると話す裕子さん。母ちゃん業での悩みやこだわりは?

「成長とともに悩みも変わってくるんですけど…」

ゆっくり考えながら切り出す。子どもが小さい時は排泄も食事も自分でできないが、今はふたりとも成長して「自分」が見えてきた。ひたすら動く大変さから、子どもの心と向き合う大変さに変わってきたという。

特に9歳の長男は、「フワフワ」していた時の自分に似ていてもどかしいと感じることがある。不安定なことがあったり、思いをうまく言葉にできず苦しんだりして泣く長男をみると、自分も泣いてしまうことがある。

「次男には腹たたんとに、長男には腹たつってことがあったんですよ。それに悩んでた。とにかく何故か腹たつとかがあって、それを自分でどうクリアしていくかわかんなくて」

幼い時の自分と重ねてしまうからこそ、長男と向き合うことは自分と向き合う作業でもあると感じている。

「自分に似てると思うんだったら、幼い時の満たされてない自分だと思って、『大人になったらやさしくしたい』っていうのをこの子に向ければ良いんだ、と」

「トラウマを持った自分がそこにいる。そこを自分で癒すつもりで接しようと思って。まだまだ途中だから、この年齢って私がピークに辛かった時なんで。結局自分と向き合うことなんですよ、子育てって。そのころの自分を見るみたいな。めっちゃきついときがあるけど。もう一回その時を体験して、自分が保護者側になって、満たされんかったとこを満たしていくみたいな作業だと思ってる」

永野さん8

向き合い方は常に「全身全霊」。

「そういうところが大変でもあり、自分も癒されていく。それが親と子が一緒に育つ、成長するってことなんじゃないかな

忙しさ、とかめんどくささにばっかりフォーカスしてたら、向き合うことを放棄したくなるけど、放棄せずにどれだけ向き合ったかでたぶん子育て終わった時の自分が変わってると思うけん。この向き合い方は大事だなと思ってる。子どものためだけじゃないと思ってる

「子どもにしたら親の言うこと全部鬱陶しいと思うけんね。一生懸命やるとはたぶん全部自分のためだと思う」と言い切る。

今後の課題は一生懸命の中にバランスを保つことだ。ネコーディネーターナガノ業と母ちゃん業、外に向けるエネルギーと内に向けるエネルギー、バランスが崩れると体調も崩れてしまう。

「いま調整期間中なんですけど。自分をしっかり立てたうえで、外の世界をつくっていかないといけないんだな、と思ったから。外側のナガノと、ふつうの永野裕子とお母さんとをすりあわせてつくっていってる感じ」

SNSでの発信も以前はファミリーアカウントと猫活動のアカウントを分けていたが、今は統一し多面的に発信している。

「猫活動をはじめた最初の頃は、次から次に仕事をこなすスーパーウーマンになってました(笑)。その加速しているスーパーナガノをみるのが初めてっていう人、私の今までの過去とか全然知らないじゃん、フワフワしてるときとか、わーって選び取ったと思ったらずーんって沈む私とか」

「みんなあることだと思うけど」と前置きしつつ、バリバリ活動している自分だけを見てすごい人と言われることにギャップを感じていたと語る。

意外にも裏アカを作りたいタイプだというが、裏表に疲れるようになった。

「ナガノは母ちゃんでもあるし、コーディネーターでもあるし、45の更年期に差し掛かった女でもあるし、ってところをごちゃまぜにして発信しはじめた」

子どもに、自分に、猫に、全力で向き合いながら、その全ての面が自分を違う方向に引っ張っているのではなく、自分を作りあげていると認識する。全ての永野裕子を自分という枠に当てはめていく作業途中だという。

家で、まちで、つながった安心をつくる

いろんな永野裕子がつながっていく。それを大切にするのと同じように、裕子さんは外の世界でもつながりを丁寧になぞる。

「穏やかに安心して暮らせるまちにしたい、と思ったんだよね」

「猫たちは寝る所やご飯、ずっと何かを求めて、安心のない暮らしをしてるわけじゃん。だけん自分の安心のない幼少期を重ねてるとこもあるのかもしれない、いま思った」

その答えが、安心できるまち。

「まち……そうね、私が(何かをすればいい)、とかじゃなかったね、最初から。とにかくまち(のあり方が変わるのがいい)って思ってたね」

自分も、子どもも、安心して暮らせるまち。猫も、猫が嫌いで嫌いでしかたがない人も。みんなの安心はつながっている。

永野さん11

つながりを見ることへのこだわりが、猫活動でも裕子さんの特色になっている。

「保護猫活動してる人は野良猫をゼロにしようってかかげてる人もたくさんいるし、それを否定しないけど、それを私は目指してないっていうのははっきりあります」

犬や猫が人とちゃんと愛情を交換し合って幸福度をもって生きていることが重要で、野良猫であっても幸せを感じて生きていればそれで良いと思っているという。ただ、猫に虐待をする人がいたり、増えすぎた今の環境は改善が必要だと感じているそうだ。

「猫を助けたいと言う意味で悩んでる人もいるし、ほんとに嫌で嫌で、健康を害するぐらい嫌って言う人もいる。どっちの味方もしたいんですよ」

「その人に合った言葉を投げたい」「その人が落とし所をみつけられるようなサポートをしたい」という姿勢は電話交換の仕事をしていた18歳の時から一貫している。

永野さん 書籍

「それが地域猫活動っていう活動の中でしか全うできないと思ってやっているので。愛護活動をしている人ですね、って言われるといや、まちづくりのひとです、って言いたいし、まちづくりの輪の中にいると、いや、あなたたちよりは猫のこと知ってるんでってなる。だからどっちにも首突っ込んで、まちづくりの会合にも出るし、愛護家の集まりにも出てるんですけど」

元々猫が好きなんですか?との質問には、まさかの「全然」。

「全然って言ったら語弊があるけど、全然。アパート暮らしだったから猫と一緒ではなかったし、むしろ苦手。っていうか、わかんないから。どう接するか、何考えてるか」

好きで好きで、というよりは、目の前に居たいのちに向き合おうと決めたから活動をしている。

もし他の国に行ったりして、猫が料理で出てきたら食べられるだろうか。

「料理に?食べると思う。まあ簡単には食べないだろうけど、向き合いたいから」

初対面の私でも本当に裕子さんらしいと思える、そんな回答だった。

「ほんとに、保護猫業界みたいなところに私を入れるとたぶんすごく浮くんですよ。でもまちづくりのほうに入れてもちょっと浮くんですよ。でもその浮いた状態だといい動きができるかもしれないじゃん逆に」

永野さん お庭で

みんなの安心はみんなで作れる。猫の問題に取り組むことは、動物愛護だけではなく福祉であり、子育てであり、まちづくりである。そんな裕子さんの社会観には「大人になったらやさしくするんだ」と誓った少女と「人生はAセット・Bセットじゃないと気づいた女性」のどちらもが現れているように思えた。


取材・執筆:メンセンディーク・花
撮影・編集:森 恭佑

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