ささやかな人生の先で、原点に戻ってきた。/ 「道草」「日々木々」中川美和子さん

ささやかな人生の先で、原点に戻ってきた。/ 「道草」「日々木々」中川美和子さん

岡山県出身のデザイナー、中川美和子さん。現在、編集者である夫・中川晃輔さんと、長崎県の大村湾沿いにある東彼杵町で暮らしている。

県の中央にまたがる大きな湾は、今日も湖のように凪いでいる。海と川がちょうどぶつかる汽水域のそばにある、築50年のご自宅。玄関から入ってすぐ右の10畳ほどある部屋には、小さなデスクと、ふたり掛けのテーブル、そして本棚が置かれている。

「そんなに大げさな人生は生きてないんです。ささやかなものなので」

美和子さんはもうすぐ9ヶ月になるお腹の中の我が子を愛おしみながら、柔らかな岡山弁を交え、語りはじめた。

おやおや、お嬢さん  道草しながら、どちらまで

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9月下旬に差し掛かりながら、外は日差しがギラついている。それとは対照的な落ち着いた室内と、軽やかな声。

「紫蘇ジュース作ったけん、どうぞ」

麦茶と、色あざやかな紫蘇ジュースがテーブルに置かれた。

フリーランスでロゴやポスター、パンフレットなど紙媒体のグラフィックデザインをしている美和子さん。屋号は「道草」と言う。Instagramのアカウントには、「デザインと言葉のまわりで道草をしています」の文字。

手がけるデザインは、美しい線の流れが特徴のカリグラフィーや書道をモチーフにしたものが多い。(今プロジェクト「みのかたり」のロゴデザインは美和子さん作)

「書道は、幼稚園から高校まで10年くらいやってたんですが、 高校になって周りがやめていって。自分ももっと遊びたいと思い始めて、やめました。ブランクがあったんですが、コロナ禍で再開しました」

書道について「めっちゃ楽しい。書く線には嘘がつけないから」と表現するが、実は書道以外でも、「嘘をつけない」「本音でいられる」「自然体な」場面が増えてきた。

外では、斜めに伸びた影が、湾の水面(みなも)では波が、あちらとこちらの間でゆらり揺れている。美和子さんは、道草をしながら、どんな景色を見てきたのだろう。

自分がやりたいこと、好きなことってなんだろう

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現在のデザイナーという職業を選んだきっかけから伺うことにする。記憶の中にあるのは、大学生時代に経験したアメリカへの留学だった。

「英文学や言語学、教育学も楽しくはあったんですけど、留学先では、追加で社会学やアートの授業も取りたいなと思って」

印象的だったのは、エクスペリエンス・イン・アートという授業で取り組んだコラージュの課題。好きな音楽を1曲決めて、そのストーリーや浮かぶイメージでコラージュを作る。使う素材も、方法も自由だった。

「学校にある段ボールやチラシ、雑誌なんかを使ってコラージュしました。それがもう楽しすぎて。気が付いたら時間を忘れて、夢中になって手を動かしてました。その時に、ああ、こういうの好きだったよなって思い出した感じ」

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提供:美和子さん

思い出したのは、幼いころの経験だ。セロハンテープにマッキーで色を塗り、カラーフィルム“風”にしたもので指輪を作る。紙を束ねて三分割し、顔・体・足元のパーツを組み合わせて遊ぶ着せ替え人形を作る。

「そういう遊びがめっちゃ好きだった。でも田舎だったし、多様な生き方をする人たちに触れていなかったから、そういう『好き』が大人になって仕事に結びつくと思えなくて、将来の選択肢から自然に外れていきました」

大学を卒業後、一度は、地元・岡山で高校の英語教師の道へ。きっかけは、親や教師から「英語が好きなら、英語の先生だね」と言われたこと。「だから、なんとなく(先生の道へ進んだ)」と当時を振りかえる。

「正直に言うと、留学時代からすでに、英語は好きだけど、やりたいのは教育よりももっと“手を使うこと”だなと思っていました。だから、いつか辞めるって思いながらだったかも」

この気づきに、もう蓋はできなかった。教師として2年を過ごしたあと、行動へと移る。

「わたしは何が好きだろうと考えたら、想像するのが好きだなあって。言葉も好きで、書道もずっとやってきたし、じゃあ文字も使えて、ビジュアルも使えるものってなんだろうって考えると『グラフィックかも』って感じでしたかね」

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提供:美和子さん

そう言ったあと、「でも、それが正解だったかは未だにわかんないけど」と付け加えるが、それはまだ少し先の話。24歳の美和子さんは、グラフィックの道を歩み始める。教師を退職し、大阪のグラフィックデザインの専門学校へ。

専門学校時代は、デザイン事務所で働きつつ、カレー店でバイトしながら、夜に勉強するハードな暮らし。「あの時は、めっちゃアドレナリン出てた。金髪ショートだったし」と笑う。今の「はんなり京都美人」な出立ちからは想像がつかないが……。「そんな風に、遅れてきた青春がいっぱいあったんです」と一言添える。

その後、大阪のデザイン事務所に就職。ウェディングや百貨店の仕事に携わり、一年半ほど働いたあと上京する。

「自分のやりたいファッション寄りのデザインや、マスっぽい広告をするなら東京かなと。あと、単純に一度東京に行ってみたかったから」

当時27,8歳。東京のデザイン事務所で担当したのは、やりたかったアパレル関係や高級ブティックの仕事など。「めっちゃ勉強になった。めちゃくちゃ面白かったし、いい環境だった」と話すが、当時の労働環境は決して良いとは言えなかった。

「自分を整える時間」で気づいた マイ・フェイバリット・シングス

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提供:美和子さん

家なんて毎日寝に帰るだけ。徹夜もしばしば。取引先や大手広告代理店の社員と連日の飲み会。週末には、先輩の仕事に無給でアシスタントとしてついていく。「日常を愛でる時間なんてなかったですね」とポツリとこぼす。

想像するだけで、体も心もどうにかなってしまいそうな日々の先。美和子さん、31,2歳の頃。岡山に帰郷。

「すでに結構疲れていたから。『この働き方、無理だ。やめよう』って」

岡山では、9時〜17時勤務の英語を使う事務の仕事についた。昼休憩で、会社近くの商店街の八百屋さんに野菜を見に出かける。職場のボランティアのおじいちゃん・おばあちゃんと、休憩時間にお茶をする。激務に必死に食らいついた東京時代とのコントラストが際立つ日々だった。

それまでは家をきれいにしたり、かわいくする発想もなかったと話す一方で、整った今のお家には、一つひとつにエピソードが詰まった小さなオブジェが大切そうに並べられている。部屋の本棚には、小説、詩、エッセイとジャンルを問わず本がずらりと。

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「デザインの仕事をしていたころ、手に取ってたのはデザインの本ばかり。エッセイも小説も読むのは無駄だと思っていました。休憩期間に入った英語の事務の仕事のときに、こういうの好きじゃなっていう文章がするすると入ってくるようになったのかも」

美和子さんにとって、家を整えたり、読書する時間はすごく大切そうに見えるが……。

「うん、大切だった。大切なんだけど、気づいてなかったのかも」

英語の教師からはじまり、グラフィックの世界へ。そして、疲れて戻った故郷・岡山。人生を「結構ちょろちょろしてるんです」と話しつつ、「でも、なんだかんだ必要な時間だった」と表現する。

一歩ずつ着実に。時には、道草こそが近道の場合もある。記事の冒頭で触れた「嘘をつけない」「本音でいられる」「自然体な」場面が増えてきたのも、このころからだ。

「嘘をつけない」≒「嘘をつかなくていい」?

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提供:美和子さん

書道へ話を戻そう。コロナ禍で再開した書道歴は、トータル15年ほどになる。

「パソコンだと、ボタンひとつで前の状態に戻すとかコピペとかできるじゃないですか。でも、書道はできないから。集中した線、気分が乗った線、その時の心情が全部出るのが楽しい」

線に嘘はつけない。そう思うと、思わず肩は上がり、奥歯に力が入る。唾をゴクリと飲み込んだところで、続く言葉にハッとした。

「嘘がないっていうと、緊張感がありそうだけど、取り繕っていい自分を見せようとする方が、あとからどっと疲れて、体にも緊張が残る。前はもっと自分にギアを入れていたんです。できるだけ、相手が気持ちよさそうな自分でいる。そういうのを、もう無意識にずっとやってた。でも、それは嘘をつくことだったから」

「嘘をついて」しまう理由は、他者からジャッジされるかもとの思い。シーンや相手に合わせ、取り繕うことが多かった。嘘をつけない感覚は、嘘をつかなくてもいい自分との出会いだった。それは、自然体なままでいることと同義で、その状態が心地いいのだと話す。

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「これまでを話すなら、このことは話しておかないと」。そう言って、またひとつ過去の扉が開く。

「実は、10年くらいカウンセリングを受けていて。それが人生においてすごく大事なことだったなと」

23,4歳。岡山で教師をしていたころだ。ひたすらにまっすぐな思春期の生徒たちに、真正面から向き合えているか。生徒たちを鏡にして見つめた自分自身は、まだアンバランスで確立されていない気がした。なぜか苦しい、生きづらい。訳もなく涙が出る夜が増えた。

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提供:美和子さん

保健室の先生の勧めで受けはじめたカウンセリング。最初のころは、泣いてばかりでほとんど話せなかったという。次第に、仕事のこと、家族のこと、恋愛のこと、人間関係など、さまざまなテーマを横断しながら、自身と向き合いはじめる。「同じ穴に何回も落ちるように」いろいろなシチュエーションで、それまでの根深い思考の癖が顔を出した。ときに歩みを止めたり、進んだと思えば後退したり。癖をひとつずつ紐解き、心のチューニングをするような道程だった。

「考え方の癖ってほんと染みついちゃってるから。先生は気づきをくれるけど、 答えをくれるわけではなくて。時間をかけて自分で自分の癖や習慣に、だんだん気づいていきました。ずっと、自分のなかに生まれる感情を自分で否定してたんですよ。こういう風に思うのは正しいんだろうかとか。でも正しい正しくないじゃなくて、生まれる感情はすべてそのまま持ってたらいいってことを、本当に長い時間かけてじわじわ分かってきたっていうか」

あらゆる感情を否定せず、そのまま持っていてもいい。どんなことも自分で選択していい。好きなものを好きだと、嫌なものは嫌だと言っていい。時にはNOを言わずに逃げてもいい。少しずつ心と体の可動域を調整するように、10年ほどの時間をかけて、身軽で自然な在りようが叶いはじめる。

同時期に、信頼できる友人や知人との出会いにも恵まれた。東京での激務を経て、岡山に戻ったあと、新たに始めたことがある。「日本仕事百貨」(全国のいろいろな働き方・生き方にフォーカスを当てた読み物系求人サイト)のローカルライターの仕事だ。

日本仕事百貨の方たちを、「嘘がなく」「すごく肩の力が抜けた、気持ちいい」人たちと表現する。そこで当時編集長をしていたのが、現在夫となった中川晃輔さんだ。

原点に戻り、はじめて自分で選んだ人

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「カウンセリングを重ね、だんだん自分が整ってきたころに、出会ったのが中川くん。恥ずかしながら、『この人がいい』ってはじめて自分で選んだ人なんです」

おもむろに、二人が結婚式に合わせて作成したウェディングZINEを取り出してくれた。全30ページのZINEは、「家族ってなんだろう」をテーマに記事が展開する。このテーマは、カウンセリングをとおして、長く向き合ってきたもののひとつでもあった。

二組の家族に話を聞いたインタビュー記事と、結婚披露パーティーの来場者に聞いた「家族とは」のアンケート結果、そして、美和子さんと晃輔さんの二人で、あらためて家族について振りかえる部分。ZINEの制作と、新たな人と家族になる過程で出合った言葉がある。

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提供:美和子さん

「自分にとって家族とは『原点』かなって答えが出てきて。そもそも、自分自身が原点にかえっている状態だったからこそ、中川くんと自然な流れで家族になることができた感じで。素直なままの自分がこの人がいい、この人と家族になりたいって決めました」

自分で選ぶって、気持ちいいですもんね。そう言って穏やかに笑う。自信のなさと怖さを感じてきたこれまでとは違い、選択に付随する責任さえも、心地よい重みに感じた。

結婚が決まり、長崎に引っ越す前、カウンセラーの先生の元へ。「もうここは卒業です。よかったね。おめでとう」。そんな言葉をくれた先生に、たまらず「一言ください」と言って、もらったのがこれとメモ書きを見せてくれた。

「一言。これだけ書いてくれた。『大丈夫。あなたなら』って、これだけくれて。それを見て、なんだかすごく励まされて」

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提供:美和子さん

その言葉がうれしくて、長い間ぼんやりうっすらと反芻していた。ここ最近、それが「信頼」を示していたことに気づいたのだという。

「わたし、ずっと誰かに信じてもらいたかったんだって気づいて。だから、あの言葉がすごくうれしかったんだって。先生はわたしのことをずっと、信じて見守ってくれていたんだってわかったんです。そのころには、じゅうぶん自分のことを自分で信じられるようにもなっていました」

螺旋階段を上がるように。同じところをグルグルと回っていると思えることもあったけれど、着実に次の階層へ進んでいた。どの階層でも変わらない自分のアイデンティティーは、「心にしっくり来るまで問いつづけること」。問うことをやめなかったからこそ、辿りつけた今がある。

わたしに根ざす。 日々の先に、日々木々

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提供:美和子さん

新しい年の初めには、日記帳に「めあて」を書くのが、もう何年ものルーティーンだ。今年(2024年)のめあては「エプロンをつけて生きていきたい」。書道や紙粘土制作、料理、畑作業。いわゆる手仕事と呼ばれる職業にも憧れがある。

「グラフィックは何かを生み出すんだけど、デジタルがほとんどだから。たまに手書きの文字入れてほしいとか言われるとうれしい。身体性を持って作っていきたい気持ちが年々大きくなっています」

頭で考えるよりも、心が動くことをしたい。年はじめの「めあて」は、だんだんと毎年似た概念になってきた。

結婚してから、夫婦ユニット「日々木々」としての活動もはじまった。デザインやライティング、編集の仕事に加え、器や本、軽食を提供するお店を構える準備を進めている。コンセプトコピーは「わたしに根ざす」。地面の中の見えない場所に、ぐんぐん根を伸ばし、どしっとして、揺るぎのないところ。力強さ。動物や人に休息を与えるところ。木からふくらむさまざまなイメージに憧れがあった。

「人やものや場所。これまで、止まり木みたいなものに助けてきてもらったなと思って。だから、そういう場やものを作れたらうれしいです」

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提供:美和子さん

自分と向き合ったり、休息を挟んで生き返ったり、ゆっくり本を読んだり、心のチューニングをしたり。訪れる人に体験してほしいのは、どれも美和子さん自身が大切にしてきたことばかりだ。

「自信を持った自分でいれば、心地がいい。そうであれば、誰かの隣に寄り添う人になれるかもしれない。 まず自分を大事にして、周りの人とも調和しながら生きられる人たちが増えていったらいいなと」

それぞれの中にしっかりと根を伸ばし、強さとしなやかさを持った人であれるように。道草の先には、あるがままの日々が続いている。


後記:

取材から1ヶ月半後の10月30日、美和子さんは無事元気な男の子を出産。お名前は、「窓」と書いて「そう」くん。なんてすてきな名前だと想像を膨らませる。開ければ気持ちよい風が通りぬけ、閉めればあたたかで安全な居場所になる。開けるも閉めるも自由。二つの世界をつなぐ窓。そういえば、美和子さんのお宅は、海と川がぶつかるところにあった。おかげで、生き物と命が豊かだった。二つの属性が重なる場所には、色とりどりの経験が生まれる。美和子さん、晃輔さん、窓くん、おめでとうございます。家族三人の新たな生活が豊かでありますように。


ほんとの後記:

実は、美和子さんにお話を伺ったのは二度。一度目は、記事にも書いた9月。二度目はまだ寒さの厳しい2月でした。初稿のやりとりをする中で、「もう一度話を聞いてほしい」と美和子さんからの依頼。図星でした。初稿がお粗末なのは、自分で読んでも明らかで。あまりにまっすぐな美和子さんの生き方が眩しくて目を細めながら書いた原稿は、下書きとでも言えそうなほどだったけれど、もうこれ以上向き合うこともできそうになく、お茶を濁し、着地しました。でも(というかやっぱり)まっすぐな美和子さんは、そんな原稿も真ん中で受け取ってくださり、すみずみまで丁寧に読み、言葉を尽くして「もう一度」と伝えてくれました。気まずさを抱えながら向かった2月の東彼杵。「話すの下手で、言葉足らずだったから」と話しはじめる美和子さん。(違う、違う、そうじゃない)と思いながら、言い出せないカッコつけでカッコ悪いわたし。

お話をあらためて聞いて感じたのは、美和子さんの純度の高さでした。自分と向き合い続けることは、誰しもができることではありません。面倒だったり、圧倒されたり、逃げたくなったり、気づかなかったことにしたり、妥協したり。そうやって蓋をできる人を「うまく生きられる」人と肯定する世の中だけど、美和子さんのお話から気づいたのは、その延長線上でしかたどり着けない場所があること。二度目のお話もしっかり眩しかったけれど、書けました! 美和子さん、向き合うことを諦めずにいてくれて、最後まで伴走をありがとうございました。自分の気持ちに嘘をつかない場所を探しつづけてきた美和子さんの記事を読んで、読者の方が、そういえば最近自分の気持ちを聞いてなかったな、すこし歩みを止めてみよう、いつもと違う道で道草してみようと思えていればうれしいです。


取材・執筆:カマサキ ココロ
撮影・編集:森 恭佑

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