佐世保市塩浜町、させぼ五番街から歩いて5分ほどの場所に、ひまわりマークが目立つ4階建てのビル。1階はアサイーボウル専門店『Ohana Café』、2階と3階は、ダンスやヨガのスタジオだ。
「おはよ~!!!今日もよろしくね!」元気なパッションの持ち主は、代表の迎 秀子(むかえ ひでこ)さん。自身もインストラクターとして、チアダンスやフラダンスの指導を行っている。他にもよさこいの振付師や、カフェの業務などなど…。毎日いくつもの仕事をこなす秀子さんの、元気の源は一体何なのだろう。カフェスタッフとして関わる私は、いつもその生き生きした姿に憧れていた。
ゆっくりお話しする機会が巡ってきた今日、今まで気になっていたことを思い切って質問してみた。すると返ってきた答えは、どれも意外なものばかり。実は子供の頃、内気な性格だったとか、体育の授業でたくさんけがをして、運動が嫌いだったとか…。
そんな話の中でも印象的だったのが、毎日の原動力について。「どうしてそんなに元気なんですか?」という問いに、いつものはつらつとした声と笑顔で、素直に語ってくれた。ますます秀子先生の背中を追いかけたくなる、そんな取材だった。
泣きべそのひでこちゃん

佐世保市稲荷町に、材木屋の一人娘として生まれる。父親は毎日忙しく働いていた。母親は生まれつき心臓病を患っており、気弱な性格だったそうだ。一人っ子のひでこちゃんは、内気なシャイガールだった。
「子供の頃は体も弱かったし、体育の授業は見学することが多くてさ。運動嫌いやった。跳び箱とかパッカーン!って飛べるってイメージがあると思うけど、尾骨打って怖くなったし(笑)水泳の飛び込みも、鼻にギーンって水入って嫌になったし(笑)」
ダンスやよさこいのイメージから、きっと幼いころから活発で、運動神経がよかったのだろうと想像していたが、引っ込み思案で、運動も嫌いだったとは…。それじゃあ一体どうして、体を動かす仕事を選んだのだろう。
秀子さんに転機が訪れたのは、高校生のとき。体育の創作ダンスの授業中、2人一組でペアになり、振付をつくってくるという課題が出された。
「友達とふざけてさ、『相撲とかしてみん?』って言って。みんなはさ、『波』とかさ、『風』とかしてるやん。そういうのやったら目立たんけんって言いながら(笑)。先生から怒られるって思いよったらさ、『とっても素敵な感性だったわよ!』って褒められて。すごい嬉しかった。その時から、私踊ることが好きなのかもって思い始めたのよ」
ずっと苦手だった体育の授業で、自分が夢中になれるものを見つけた秀子さん。高校を卒業してからも、毎週ディスコに通っていたという。内気な性格の秀子さんにとってダンスとは、自分を表現できるコミュニケーションツールの1つだった。
とある映画の主人公に憧れて

始めて就いた仕事は、ブティックの店員。友達に誘われて入社したものの、服飾のことにはまったく興味がなかったそう。ストレスで神経性胃炎になり、2年務めたブティックを退社した後は、実家の材木屋の手伝いをした。トラックに乗って重い木材を運ぶ秀子さんに、忘れかけていたダンスへの想いをよみがえらせたのが、ある一本の映画だった。
「『フラッシュダンス』っていう映画があったのね。ダンサーがオーディションを受けて、有名になっていく話。友達に誘われて、23歳の時に見たんだよね。私もあんな風に踊ってみたい!って思ってさ。友達を誘って地元のエアロビクス校に入会した。そこの先生とフラッシュダンスの主人公がリンクされて、一緒に踊るのがすごく楽しかった」
エアロビクスのどんなところが好きだったんですか?
「気持ちがハイになれるところかな。心拍数がぶわーって上がって、最高潮に上がったところで、自分を解放できるエネルギーを感じられる。それが好きだったね」
通い始めて1年半。ある日、先生から「私のクラスを引き継いでほしい」と、インストラクターの道を勧められた。たくさんの生徒の中から秀子さんが声をかけられたのは、きっと誰よりも熱心な様子が印象的だったからだろう。突然のことに驚いたが、同時に憧れの先生に近づけるチャンスでもあった。養成コースが用意され、仲間と共に、それまで先生がやっていたレッスンを真似て、順番や教え方を学んだ。熱心に勉強するが、現実はそう上手くいかなかったという。
「キャンセル待ちになるくらいたくさんの生徒さんがいたのに、引き継いだとたん、5人減り、10人減り…。マンツーマンのことも。誰も私のレッスンを受けてくれなくなった」
“誰かを真似するだけでは、生き残ってはいけない“というのが、インストラクター業界の厳しさだった。「私らしさ」を模索する日々。そんなとき、エアロビクスの資格制度があることを知り、テキストを取り寄せて一から勉強を始めたそうだ。自分がやりたいことのためなら、苦手な勉強も楽しくてしょうがなかったという。
「がんばって取った資格が自信になって、生徒さんに堂々と指導できるようになった。レッスンの中でちょっとずつ自分らしさも出せるようになっていったかな」
母の面倒を見る、働き盛りの20代

引き継いだクラスは、建物の老朽化によりクローズ。その後、自分でサークルを立ち上げたという。材木屋の手伝いも続けながら、生徒50人を率いてインストラクターの道を進んだ。
「ちょうどそのころに、父と母が離婚するってことになって。母が弱いから、引き取って2人で一緒に暮らすことを選んだのね。まだ20代だったけど、母親の面倒を見る働き盛りの人になってしまった」
実家の材木屋は閉めることになり、サークル活動だけでは十分な収入は得られなかった。新しい勤め先を探していたとき、エステとスタジオを経営する方から「エアロビクスのスタジオをしたいから、そこに社員で入ってくれないか」と誘いがあった。サークルは会社のスタジオで継続することになったのだ。
「26歳は、大転機の年だった。材木屋はやめる、家を出て、安いアパートに移る、母と2人、その給料で生活。朝にレッスン2本、昼はエステの手伝いをして、夜のレッスン2本。毎日遅くにヘロヘロになって帰ってたね。自分が欲しいものは何にも買えんかった」
当時エアロビクスは大流行中。エアロビクススタジオは盛り上がっていく一方で、エステの経営方針とのギャップを感じるように。そこで、独立してスタジオを設立すると決心した秀子さん。『ビーフラット』を立ち上げたのは、30歳の時だった。
今でこそ立派に会社の舵を切り、スタッフを上手にまとめる秀子さんだが、立ち上げ当初は《社長》という立場にプレッシャーを感じていたという。
「一番の苦労は、スタッフとの人間関係。みんなは私のことどう思ってるんだろうとか、気にしてた」
経営者としてどうリーダーシップをとっていったらいいのか。悩みを抱えていた秀子さんは、「商工会議所青年部」という地元の起業家の集まりに入団した。そこで仲間と関わる中で、経営者としての心構えを学んでいった。
「自分が悩んでることは、意外とちっぽけなことかもなって感じた。『そがんとだいでもあることよ!!』『もっと遊べ~!!』とか、『飲め~!!』とか言われて(笑)。自分の中ではすごい大きなことになってたけど、そうなんだと」
直感を信じて、まずは行動すること


スタジオ創立初期は、エアロビクスのレッスンが主だったそうだが、より多くの人の心を満たすために、ヨガやチアダンス、フラダンスを開設してきた。
これまでたくさんの夢を叶えてきた秀子さん。その秘訣は何だろう。
「その夢を叶えるために何を補えばいいの?っていうことを考えてる。今の私に足りないものを一個ずつTO DOリストみたいに潰していく感じ」
生徒さんからリクエストされたヨガのレッスンを開設するために、ハワイの養成コースに通ったり、TVのニュースで感銘を受けたチアダンスのショーを実際に見るために、神奈川県まで足を運んだり。お話を聞いていると、きっと秀子先生は自分の直感を信じ、すぐ行動に移すことができるからこそ、これまでたくさんの「やりたい!」を叶えてこられたんだと思う。
でも、直感を信じるのが怖くなる時ってありませんか?
「やりたいと思ったらね、ダメだったらどうしようよりも、どうやったらやれるかなってことばっかり考えてる。石橋叩かないから、たまに失敗することもあるんだけどね。そういう性格。いつからこうなったんだろ?あんなに引っ込み思案だったのに」
これまで生きていく中で出会った人に影響されたり、経験が自信になったりして、好きなことにも躊躇なく挑戦することができているのかもしれないですね。
「そう、考えてみるとそうなのかな。大好きな先生の存在があるからね。目指すべき姿があるから、やってこれたのかな。よさこい、チア、ヨガ、フラダンス、それぞれに自分が理想とする先生がいるんだよね」
生き方を教えてくれた、4人の恩師たち

秀子さんは、これまでお世話になった4人の先生について、思い出を語ってくれた。
よさこいの國友須賀先生。初めて秀子さんがよさこいの振付を始めたころ、視察で札幌にいったときに出会い、その振付や演舞のパワーに魅了されたそう。
「マウイのご自宅に泊まらせてもらったこともあるんだけど、一緒に山登ったりして、よさこいは教わってないんだけど、生き方はすごく感じられた。型にはまらない生き方でいいんだって。感性って自由よねって。自分が思ったままでいいんだなということを思わせてくれたね」
チアの前田千代先生。神奈川のショーを見に行ったとき、一人飛び出す絵本のようにエネルギーが前に出ている方だったと語る。
「ショーのあと楽屋にお邪魔したら、九州はまだ全然これからだから、迎さんもしよかったらお勉強して広めてくださいって、VHSのテープもらって。結局その先生が佐世保まで来て、養成コースやってくれて。殺伐としたライバル心のある女子の世界を上手にまとめていく力があって、すごい尊敬してる」
ヨガのルパリ先生。生徒さんからリクエストされ、ハワイで資格習得を目指していた時に出会った先生だ。
「大好きな先生。いろんな人と関わる中で、相手に対して、えっ何でそんな風に言うんやろとか、いやそうじゃなくて、とか思うところも、あの先生だったらもっと違う受け止め方をするんだろうなって。自分がカーってなりそうなとき(怒りの感情がでるとき)、ルパリだったらどうするだろうなっていうことを考えて、一呼吸できるような。やっぱりヨガはルパリに学んでてよかったな」
フラダンスのクムフラ・オラナ・アイ先生。
「私のお母さんみたいな年齢の方で、すごい厳しくて。ただ音楽に合わせて動くだけじゃなくって、文化を知ることが大事なんだって言って。言葉の発音から、すごい親身になって教えてくれた」
ありのままの自分らしく生きること。自分を信じて、強く進んでいくこと。夢に向かって、失敗を恐れないこと。仲間に感謝し、認め合う姿勢を持つこと。今の秀子先生の「生きる軸」は、この4人から教わったという。
そして、今はそれらを”教える側”だと感じられているのではないだろうか。そんな予感のした私は、こんな質問を投げかけた。

秀子先生にとって、仕事ってなんですか?
「“必要とされる場所で、役に立つこと“かな。私でも必要としてくれる場所があるんだったら、そこで精いっぱい力になりたい、人の心を満たしたい」
”人の力になりたい”というあたたかい愛情。その感情はきっと、今まで秀子さんが受け取ってきたものであり、これから自分が人に与えていきたいと思うもの。

誰かに必要とされるって、きっととっても幸せなことだ。そんな話をしていると、私に向かって「必要としてるよ!」と笑いかけてくれた。心がポッとあたたかくなった。
”この人についていきたい”。どこかそう思わせるそのパワーの源は、生き方を教えてくれた彼らのように、自分も誰かの心を満たす存在でありたいという想いだった。自分を信じて進む秀子さんは、今日もこのビルに声を響かせている。
取材・執筆:田中 すみれ
撮影・編集:森 恭佑