この記事は学生時代からの友人同士で行われたインタビューです。
今でも定期的に会っていて、一緒に旅行に行くこともあるふたりですが、普段の会話では簡単に話せない話題がありました。それは、子どもについて。
30代半ばになっていたある日、友人がずっと不妊治療を受けていたことを、彼女のSNS投稿を見て知りました。
それはすべてが終わったあとの、周囲の人たちへの報告というカタチでした。「どんな風にその日々を乗り越えたの?」「どうして今まで私に話さなかったの?」「家族ってなに?」「子どもを産むってどういうことだと思う?」……
今回は、ずっと気になっていたことを彼女に聞くために、そして、わたし自身が結婚や子どもについてもっとリアルに考えさせてもらいたくて、インタビューを通してゆっくりとお話しし、考える機会をいただきました。
なお、本記事は、話者の方のプライバシーに配慮し、本名や個人を特定できる情報を極力記載しておりません。

順風満帆な人生?
彼女は4人妹弟の長女として育ちます。第一志望で入った関西の大学で楽しい仲間に囲まれて過ごし、地元にUターンした現在は公務員として働いています。社会人3年目に出会った旦那さんとは2年の交際を経て結婚し、結婚7年目に第1子を授かりました。
私から見れば彼女はいつも明るくしなやかに生きていて、その人生は順風満帆そのもの。けれどそんな彼女が、
「ひとの家はひとの家だし、そのひとにもきっと誰にも言っていないつらいことがあるはずだよね。わたしにもつらい時期があったけど、近い人ほど気を遣わせたくなくて言ってなかったから。
だから、わたしが『うらやましいな』と思ってる人にも、絶対に悩みはあるけどしゃべってないだけなんだろうなって思うようになったんだ」
と語るのです。
彼女はどうやってそんな日々を乗り越えたのでしょうか。
おいしくノリ切り、ご機嫌に過ごす
彼女は小さい頃から、弟や妹たちの中でバランスをとりつつも、自分がやりたいと思ったことは我慢をしない子どもでした。中学・高校の部活動では、はっきりと自分の意見を言うタイプ。大学時代には、関西の明るいノリを知りました。
「関西のノリを初めて体験して、それまであった人見知りな性格の部分が変わったかな。みんな元気かな。楽しかったなって今でも思い出す」
そんな彼女の日常を、少々強引ですが、ざっくり大きく分けてもらうことにしました。するとそれは「家族」と「おいしいもの」と「楽しいこと」、そして「生きるためにやるべきこと」で出来ているのだそう。
「大事なのは家族と食と楽しいこと。ご褒美がまさにそれって感じで、なんにも無くてもおいしいものを食べれば楽しめる。この間も、息子を連れて昼間から中華屋さんでノンアルコールビールと餃子を頼んじゃって(笑)。こんなお母さんいないよねって息子に言いながら」
こんな風にいつも彼女はどこか楽しそうで、おちゃめで、話を聞いているこちらも自然と笑ってしまいます。

そして、一日の終わりにはいつも、その日にあったことを旦那さんに話すのだそうです。 そんな仲良しなふたりですが、結婚してしばらくの間は、なかなか一緒に過ごせない期間もありました。
「最初の3年くらいは、彼は出張に行っていて週末婚みたいな感じだった。そのあとこっちに帰って来て」
それまで楽しく過ごしてきた夫婦ふたりの日々に、足りないものや不満があるわけではありませんでした。ですが気づけば、周囲の家族から「子どもができた」と聞く機会は増えていきました。
結婚した先に現れた新たなゴール
そんな変わっていった周囲の環境と自分自身との関係を、彼女はこんな風に冷静に振り返ります。
「20代後半から30代にかけてって、まず結婚っていうゴールテープがあったよね、誰が早く結婚するか、ヨーイドン!みたいな。それで、結婚したら、じゃあ次は子どもをどうするかって、競争じゃないけど、そういう時期があるよね」
たしかに彼女の言うその競争のような感覚を、わたしも感じたことがある気がしました。それは自分のまわりの友人たちが結婚していったり、子どもが出来ているのを見聞きしながら、世間の空気のようなものを感じ取って、自分の気持ちとはあまり関係のないところから焦りがやって来る、そんな感覚。

青天の霹靂(へきれき)
結婚3年目にして週末婚のような状態が終わり、新しくなった生活のリズム。このタイミングが、ふたりが結婚生活についてあらためて立ち止まり、考えるきっかけになりました。
「旦那さんは子どものこととかどう考えてるのかなって気になっていたけど、直接聞いてみたことはなかった。だから、ちょっと行ってみない?って軽い感じで誘って、不妊治療をやっている病院のセミナーに2人で参加したんだよね」
そして、人生は思い通りにならないことが世の常であるように、この時の彼女にも、想定外の方向から、予想していなかったことが起こりました。
「病院のセミナーを受けてみたあと、今度は検査を受けてみようかってなって。検査を受けてみたら、もう今すぐにでも治療をしないと時間が無い、ステップを踏んでる暇は無いと言われて。あれは青天の霹靂だった」
この検査結果をひとりで聞いた彼女は、自分の口から、すべてを旦那さんに告げる必要がありました。
「検査を受けていた長崎の病院に通うのか、それとも、もっと専門的な東京の病院に通うのか。選択肢はあるんだけど、どう思う?って聞いたの。そしたら彼が『最善の方法を取ろうよ。東京に行こう。いくらお金がかかってもいいじゃん、最善なんでしょそれが』ってふたつ返事でそう言って決めてくれた」
当時の彼女の気持ちを思うと、旦那さんに伝えることはきっととても難しいことだったはずです。けれど、そんな彼女の不安を打ち消すように旦那さんは即決してくれました。それが、彼女にとってどれだけ嬉しいことだっただろうと想像して聞いていると、彼女はそんなこちらの気持ちを察したかのように、
「行くのはわたしばっかりなんだけどね」
と最後にひとこと付け足しながら、少しだけ照れくさそうに笑っていました。

スイッチを切り替える
それからは、仕事を続けながら東京の病院に通う生活が始まりました。
「毎日、自分で自分に注射を刺して、薬を飲んで、東京の病院に月に1回くらい通う生活を送ってた。その期間は辛いし、そこまでしてても上手くいくとも限らない。結局、4年かけたけど妊娠できるチャンスは、4回だけしかなかった」
この間、「時間がない」と言われて意を決して東京に通い始めていたにもかかわらず、突然コロナ禍がはじまるということもありました。こうして県外への移動が難しかった時期、職場の理解ある上司との対話も経ながら、それは約4年間に及びました。
そんな終わりの見えない日々を4年間続けた彼女に、どうしても聞いておきたいことがありました。それは、
子どもは欲しいと思っていたの?
なにかを頑張るとき、きっとそこには目標のようなものがあるのだろう、そしてその目標を達成するために大きな決意をしているからこそ、人は踏ん張れるのだろうと、わたしはそんな風に単純に考えていました。けれどこの質問に対する彼女の答えは、もっとずっとリアルなものでした。
「あの時はもう、子どもが欲しいかどうかっていう段階じゃなかった。自分が子どもが欲しいかどうかって、もうそれは分からない。ただ、わたしは今これをしないと後悔すると思ってやってた」
この日、彼女はこちらの笑いを誘いながら、終始笑顔で話をしてくれていました。これらの話は既に終わったことで、自分はもう乗り越えてしまっているのだというように。ただ、後日ボイスレコーダーを聞き返した時、その場では拾えなかったひと言があったことに気付きました。
「辛かったよ」
その時、ぽつりと小さく発されていた言葉が、ふだん決して弱音を見せない彼女の強さと、それでも小さく出てしまうほどの経験であったこと、そして大きい声では言わない彼女の優しさなどの諸々を、すべて詰め込んでいるようでした。
「最後の方は、時間になったらそういうモードになることで、作業として淡々とこなしてた。そういう性格で良かったと思う。しなきゃいけないことを自分の中のルールにしてしまえば、心をオフにしてでも、することが出来るから。」
こんな風に彼女が「くよくよしても何も変わらないから。」と言えるのは、もしかしたら、既に彼女が十分過ぎるくらい、くよくよし尽くしたからなのかもしれません。

子どもがいない未来 VS 子どもがいる未来
4年間で得た4回のチャンス。その貴重なチャンスのうちの2回目が失敗したのだと分かった時、
「もう残り半分しかないし、1回目と2回目と続けて駄目だったし、やっぱり結構落ち込んで……」
ある夜、旦那さんとふたりで家の近くの回転寿司屋さんに行ったとき、彼女はたまらず泣きだしてしまいました。すると、彼女を見つめていた彼の目にも、みるみるうちに涙が溜まっていき、気づけばふたりはお寿司を食べながら、一緒に泣いていました。
彼女が言うには、「旦那さんが泣いたのは自分自身が辛いからではなく、わたしが泣く姿を見るのが辛くて泣いていたんだ」のだと教えてくれました。
奥さんがいればそれでいいと旦那さんが思ってくれていることを、彼女はずっと知っていました。
「元々、夫婦ふたりでも十分楽しかったから、このまま夫婦ふたりでも幸せだし、もし子どもが出来たとしてもそれはそれで幸せなんだって、それなら、どうなってもわたしは100%幸せじゃないかと思って、3回目に挑んだ。そしたらたまたま出来たんだよね」

あの日々を乗り越えたからある、今
妊娠してからは、それまででは考えられないほど、すべてがすんなりと進んでいきました。
出産も無事に終え、現在息子くんはすくすくと元気に育っています。
「今は、この子が何をしてもかわいいんだ」
新たにはじまった母親としての日々。きっと大変なことも多いだろうに、彼女の肩にはまるで力が入っていません。息子くんが泣き出しても、それさえまるで楽しんでいるかのようで、私の知っている、しなやかで明るい彼女のままです。
彼女が旦那さんと出会ったときに
「この人の笑顔を一生見られる人はいいな、幸せだろうな」と思ったこと
そしてその人との間に
「この子の笑顔を見ているときが一番幸せ。」と思える宝物を授かったことを
友人のひとりとして、今、わたしは心の底から祝福する想いです。
今回、みのかたりのインタビュー記事の制作という機会を頂いて、とても繊細で、とても個人的なお話にも関わらず、わたしの依頼を快く受け容れ、彼女に語って頂いたこと、そして勝手ながら、それまでわたしがひとりでは到底向き合えなかったであろう、結婚や子どもを持つことに関するモヤモヤと向き合う時間とさせて頂いたことを、本当にありがたく思っています。
このインタビューをするまで、わたしは「妊娠できる年齢」のタイムリミットに、漠然とした恐怖のようなものを感じていました。結婚は自然にまかせればいい、でも子どもを持たない人生を生きることや、母親を経験しないことを、わたしは『これでいい。』と思えるのだろうか?と。もしそう思えないまま、後悔し続ける人生になってしまったらどうしよう、と。
10代や20代のころは、何も考えなくても結婚し、母親になるのだろうと思っていました。けれど30代になった今、どうやらわたしは「母になる」というゴールテープを切らないようだと、勘づいています。いつか来るその日にせめて『大丈夫、これでいい。』と思えていたい。
恐怖心のなかには、経験したことのないことや知らないことに対する不安がありました。知識がなく、経験のないことを想像するのは難しかった。ですが、今回のこのインタビューで、彼女の経験を通じて妊娠や出産について考える時間を持たせていただいたことで、気づけば、不安はなくなっていました。
どれだけ一人で考えてみても分からない、だからといって、人それぞれ抱えているものや状況が違う中で、だれとでも話せるような気軽な話題でもないことを、「みのかたり」を通して、必要とする誰かと共有できますように。
そして最後に、彼女が「どうなってもわたしは100%幸せじゃないか」と気づけたように、選ぶと選ばざるとに関わらず、どんな道を歩んでも100%幸せなれることを、これからもずっと(彼女も、そしてわたし自身も)忘れずに生きていけることを願って。
取材・執筆:松田 みわ
撮影・編集:森 恭佑