「自分らしさ」を追い求めた先にある新たな表現へ

「自分らしさ」を追い求めた先にある新たな表現へ

「こだわりがすごく強くて、その通りじゃないと怒っちゃうみたいな感じの子だったらしい」

浜町にあるアトリエで画家の土岐勇将さんはそう語る。2001年、長崎県長崎市生まれ。デンマークへの留学を機に本格的に絵を描き始め、現在は浜町を拠点にその活動の幅を広げている。取材のなかで「自分らしい絵を描きたい」と語った土岐さんだが、実は幼少期に持っていた自分らしさやこだわりというものを、今は失くしてしまったとも言う。 土岐さんの幼少期から現在に至るまでの人生を振り返る中で、土岐さんが目指す「いい絵」とは何かが見えてきた。

土岐勇将 1枚目

こだわりの強かった幼少期

幼少期はこだわりが強かったと言う土岐さん。20年ほど経った今でも忘れられない出来事があるそう。

「自分でも嫌な思い出なんだけど、小さい頃に、田植えに行って、母がふざけて僕に泥をかけたんですよね。それにすごくむかついて、母の指をガッて掴んで、痛くなるまで締めたことがずっと忘れられない。そんなこと今じゃ絶対にあり得ないのに」

そう語りながら、少し微笑んで思い出したようにこう続ける。

「バナナがめっちゃ好きで、手が届かないところにあっても、自分で椅子を動かしてまで、ひたすら食べていたらしい」

しかし、ここで画家として活躍する土岐さんから意外な言葉が飛び出す。

「クリエイターって、これがしたいっていうベースがある人が多いんだよね。でも、僕は逆にそれがなくなっちゃったから、いろいろやって、いいもの、できることをやるって感じ。どこで失ったんだろうって思う。こだわりの強さ。昔は、自分らしさっていうのがあったらしいんだけど、今はよくわかんなくなっちゃって」

「自分らしさ」という言葉の感触を確かめるように、慎重に間を置きながら語る。どうしてそれを失くしてしまったのか、そのことが今の土岐さんの制作活動にどのような影響を与えているのか、記憶を手繰るようにゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。

土岐勇将 2枚目

ある日突然、学校に行けなくなった

人生における大きな決断について尋ねると、高校を辞めたこと、そしてデンマークへの留学を決めたこと、という答えが返ってきた。

「勉強は大丈夫だったんだけど、なんだろうな、環境が怖かった。僕、繊細だからさ。人が叱られているのでも、自分が叱られていると感じちゃうことがあって」

高校時代、絶えず罵声や怒鳴り声が聞こえてくる環境に耐えられず、ある朝突然、学校に行けなくなった。当時、どうして急に行けなくなったのかはわからなかったとそう。

「原因が全くわからないから本当に動揺しちゃって。すごくしんどかった。相当傷が深かったから、学校関係のものとか見たり触ったりするのが本当にダメで、認知すらしたくなかった」

2、3年の間、学校に関わる教材や鞄、制服、シャツなどを見たり触ったりするとパニックになる時期が続いた。17歳で5年通った学校を辞め、別の高校に入り直し、美術教室に通った土岐さんだったが、その美術教室で先生が生徒に怒鳴るのを見て、再び調子を崩した。

そんな状況にあった土岐さんが18歳でデンマークへ留学することを決意したのはなぜなのだろうか。

「その当時、自分がこんな病んじゃうのは、自分の視野や価値観が狭いからだなって思っていた。日本の環境、かつ、長崎の環境で、狭い環境しか知らないから自分を責めちゃうんだろうなって思って、視野を広げるために留学した」

土岐勇将 3枚目

土岐さんが視野を広げるために選んだ国、デンマークには『ヒュッゲ』という言葉がある。『ヒュッゲ』とは、「居心地がいい時間や空間」という意味の言葉で、暖炉の前に集まって、コーヒーを片手にみんなでゆっくりおしゃべりするといったデンマークに根づく文化のことを指す。

「そういう文化があるっていうのを聞いていたから、ちょうどいいなと思って。めちゃくちゃヒュッゲしてきた」と笑みを見せながら、懐かしそうに言う。

「あとは、単純に地球の反対側だし、価値観を探すっていう意味においては反対側に行ったらいいんじゃないかって思った」

「なるべく日本人がいなくて、遠いところ。アジアに行ってもしょうがない」

留学を決心した土岐さんは、単身、デンマークに向けて出発した。実は、これが初めて海外だったそうで「すごいね。一人で行ったもんなぁ。相当怖かったと思いますよ」と言うが、そこには、高校生活では感じられなかった、ワクワクするような興奮と期待の混ざった気持ちがあった。

土岐勇将 4枚目

デンマークでの思い出

こうした思いを抱えながらデンマークに降り立った土岐さん。デンマークで過ごした1年半にはたくさんの思い出が詰まっている。特に印象に残っている人や出来事について尋ねてみた。

「デンマークで付き合っていた人もいましたよ。その人は印象に残っているよね。彼女がピアノを弾いているところを、僕が写真に撮っていたんですよ。それで、彼女に何も言わず、美術室で勝手にその絵を描いていたら、どこかのタイミングでそれが見つかって、『え、私描いてるやん』みたいな。それでめっちゃハッピーになってくれて、そこからアタックされて、付き合ったね。当時19歳」

帰国する前は、3週間ほど彼女のふるさとの、大きな池に白鳥がいる港町で一緒に過ごした。

「今考えるとなかなかいい経験をしているな。羨ましいぞ」と笑いながら語る。

土岐勇将 6枚目

しかし、一方で辛い出来事もあった。

「祖父が癌で亡くなってしまったのは辛かった。一度、家族から祖父の動画が送られてきたんだけど、あんなに元気だった祖父が病院で、枯れ果てた姿になっていて。そのときは、コロナの隔離期間中だったけど、寮飛び出して、本校舎にあるゲーマーズルームっていう部屋に逃げ込んで、大号泣しました」

祖父が亡くなる前、最期の時間を一緒に過ごすために、日本にいる家族から、帰国してはどうかという提案をされた。悩みに悩んだ末、土岐さんが出した答えは、デンマークに留まり、絵の勉強を続けることだった。

「後悔しているかって聞かれたら、後悔しているけど、祖父の死か、留学生活かっていう選択は、すごく難しいですよね。結果的に記憶に残る経験をいろいろできたけど、祖父の最期は見届けられなかったから少し複雑です」

「自分で選んでおいてなんですけど」と言いつつ、祖父の死を見届けられなかったことに対する、悔しいという言葉だけでは形容しがたかった胸の内を、分析するようにこう語る。

「元気な姿しか知らなかったから、ギャップが激しすぎて。徐々に見届けるならいいけど、気づいたらもう死ぬ直前とかだったから、気持ちが追いつかなかったんでしょうね」

お酒を飲み交わしながらみんなでダンスをしたパーティー、新型コロナウイルス感染症による隔離生活、仲の良かったデンマーク人の家でのホームステイ、海で流され死にかけた話、挙げればキリがない思い出の数々。かけがえのない経験を積み重ねる日々の中で、土岐さんは絵を描き続けた。

土岐勇将 6枚目

留学で変化した価値観

視野を広げ、価値観を変えたいと思い決意したデンマーク留学。『ヒュッゲ』の文化の中、フォルケホイスコーレの人々との出会いや、祖父との別れを経験した。1年半の留学を終え、2020年の年末に帰国したときは、大晦日はホテルで一人、年越しをした。留学を通して、土岐さんの意識や価値観は大きく変化した。

「行く前とかって、焦っていたんだよね。18歳でデンマークに行ったじゃない。そしたら 25、26歳の人が『やることわかんない』って言って、ゲームしているんですよ。あれ、いいじゃんって。もっと考えていいんだなって思った」

日本で普通に人生を送っていると、考える時間もなく、中学・高校を卒業して、大学に行って、一切止まることなく就職をする。土岐さんは、そういう固定概念をがっちり植え付けられていたと言う。

「一気にぶっ壊されたね。もっと自分を大切にしていいんだなって思った。自分に対しておおらかになったし、なんとかなるさっていう精神が身についた感じ」

学校に行けなくなった頃は、自分に課すハードルを高くすることで、自分で自分を追い込んでいた。また、それを社会から求められているように感じていた。しかし、「留学したことで自由になりましたね、心も体も」と語る。

そう語る顔からは、すでに懐かしさの表情は消え、前をしっかりと見据えていた。

土岐勇将 7枚目

自分にしか描けない絵

帰国後1 年半は、自室や祖母の部屋を使いながら、また、あるときは、長崎市茂木町にある『月と海』というホテルに居候しながら絵を描くなど、場所を転々としながら個展を開催していた。

「その時は、別に何のビジョンもなかったから、とりあえず売れればいいやみたいな。そうやって5回目くらい個展をしたときに、辻本先生(画家 / STUDIO HIZEN LLC CEO)に出会った」

必然的とも運命的とも言えるこの出会いにより、目指すべき場所が変わり、土岐さんが描く作品は、それまで描いていた眼鏡橋など長崎の風景から大きく変化した。

「もっと国内外で活躍できるような絵を作りたいって思った。今は、全国とか海外に行きたいから絵を進化させている段階ですね。ただ、それまで僕のファンだった人からするともうわかんなくなっちゃう。僕の絵を買ってくれる人の中には、昔の絵が好きだっていう人もいるし、今の絵が好きっていう人もいる。それくらい変わっちゃった」

「今、昔の絵を描いてって言われたら、昔の半分くらいのスピードでもっといい絵が描けます。それくらい力も上がっている」と、断言する。

土岐勇将 8枚目

辻本先生に出会い、長崎から全国、そして世界へと目標を変えた土岐さんだが、今の彼が目指す絵とはどのような絵なのだろうか。

「曖昧になってしまうんだけど、単純に“いい絵”を描きたいなっていうのが根幹にあって、コンセプトより先に“いい絵”っていうのがずっとあります。“いい絵”っていうのは一概には言えないんだけど、力を持った絵というか、自分らしい絵を描きたい。僕にしか描けない絵を描きたい」

自分らしい絵がどのようなものかは、絶賛模索中だそうだが、今は植物と相性がよく、植物をモチーフに表現をしている(取材当時)。

土岐さんが徐に立ち上がり、大きなキャンバスに描かれた1枚の絵を見せてくれた。そこには、植物を背景に男女2人が横に並んで立っていた。

「この絵を描いた時に、人より植物の方が表現として面白いなって思って、植物だけにしてみることにした」

2024年の4月には、植物を描いた作品だけを展示した個展『Innermost』を開催し、展示した作品は完売した。この展示を通して、一つの方向性を獲得した土岐さん。この感触を逃さないように、さらに植物をブラッシュアップしていく。

土岐勇将  9枚目

「最初、自分らしさを見失っているって言っていたじゃん。でも、いい絵を描きたいってなったとき、いい絵は自分にしか描けない絵、自分らしさだよね。結局、描きながら作品としての自分らしさ、人間としての自分らしさっていうのを探している。簡単そうで一番難しい。自分が自分のこと一番知らないですもんね。しかも変わるじゃないですか、自分自身の考え方や行動とか、価値観とかって」

いい絵とは何かを語る中で、インタビュー冒頭でも語られた『自分らしさ』という言葉に回帰する。変化し続ける自分の『自分らしさ』とは一体何か。その答えを探るヒントとして、『優しい』というキーワードを挙げる。

「変わらないものが、根幹にあるはずなんですよね。いろいろな絵を描く中で、『優しい』っていうのは昔から一貫して言われている。僕からしたら自分が優しいとは全然思わないし、自分では納得していない。だけど、優しいって言われることは一貫している」

土岐さんは、自分の優しさを、人に気を遣っちゃうだけだと表現する。

「優しさから優しいことをしているわけじゃないからね。好きな人だったらするかもしれないけど」

「優しい絵ってなんだろうな。作っているのは自分自身じゃないですか。人から言われるってことは、それは事実としてあるってことですからね」

土岐勇将 10枚目

土岐さんにとって優しい絵が自分らしい絵なのか。まだ自分の中でもモヤモヤとしている、その問いに向き合うために、映画や音楽の中にそのヒントを探す。

「ビビッとくるものがないかなって。最近、ロマンス映画、恋愛映画が好きなんだって気づいて、昔の映画をよく見るんです」

今の一番お気に入りが『君に読む物語』(原題:The Notebook)というロマンス映画。様々なジャンルの映画や音楽を鑑賞する中で、だんだんと今の自分にハマるものが見えてきた。

「いろいろなところからピースを集めている感じかな。ピースが揃っても結局これはどういう意味かっていうのは、まだわかんない。恋愛映画が好きっていう事実はあるけど、それが僕の性格や作品にどう影響しているのかはわからない。本当に自分らしい、いい絵っていうのは時間がかかっちゃうかなと思う。ちょっと悔しいけどね。それは地道にピースを集めていくしかない」

土岐勇将 11枚目

取材の最後に、自分らしさを模索しながら、絵を描き続ける土岐さんに今後の目標を聞いてみた。

「海外進出が今の目標。そこはステップアップしていくしかない。2024年内か、2025年の頭には、ギャラリーが主催するコンテストに作品を出して、プロの作家としてデビューする。最終的には海外を目指す。だから、今、必死に作っている」

不登校からデンマークでの留学を経て、それまでの価値観から解放された土岐さん。「こだわり」や「自分らしさ」がわからなくなり、それを模索してもがく中で、脱皮を繰り返すように新しい表現を生み出していくのだろう。


取材・執筆:葛島 裕士
撮影・編集:森 恭佑

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